理事の部屋

2025年4月22日
圓龍寺こども食堂

皆様こんにちは
毎日とても暖かくなりましたね
あっという間に桜も散ってしまい寂しい感じもしますが毎日暖かくて心は和みます
さて、今日は日曜日ですが理事長と一緒に以前よりご支援をさせていただいております堺圓龍寺こども食堂に行ってきました
圓龍寺さんは堺区にある800年以上の歴史あるお寺さんでちょうど少林寺小学校の南側にあります
堺で有名なかん袋さんでも700年ですから凄い歴史の重さを感じますね
今日のメニューはカレーうどん
圓龍寺こども食堂のこだわりはレトルトや即席ではなくしっかりと手を入れた健康で新鮮な温かいご飯を子供たちに提供するのがコンセプト
今回も美味しいカレーうどんとかやくご飯を満喫しました
ご馳走様でした
お近くの方はぜひ美味しいご飯を食べに行ってみてください
圓龍寺こども食堂

圓龍寺こども食堂

2025年4月1日
堺紡績所

皆様こんにちは。
あっという間に4月になりました。
あちらこちらで桜の花が咲いていて心が和みますね。
 
前回は戎島の誕生を説明したのですがもう少し伊地知家と薩摩藩のつながりをご紹介します。
 
堺紡績所

岸和田市立図書館より転載
 
現在いじち歯科がある場所は1870年(明治3年)に薩摩藩が日本で2番目の機械紡績工場をつくった場所なんだそうです。
大規模な工場としては、近代最初とのこと。
1868年(明治元年)に薩摩藩士石河確太郎(正龍)を責任者として建設が開始され、同年暮れにはイギリスのミュール紡績機(ビギンズ商会製)2,000錘(すいと読み糸をつむぐ機械だそう)が鹿児島経由で堺に運び込まれた。
そして1870年(明治3年)4月に蒸気機関の試運転が開始され、同年12月に本格稼動。
1877年(明治10年)には明治天皇が関西行幸の折に視察に訪れていてその記念碑が医院から東側100メートルほど行った場所に現在も残っています。
 
順風満帆なスタートでしたが僅か10年ほど後1878年(明治11年)に浜崎太平次・肥後孫左衛門に払い下げられ翌年にはさらなる業績不振により紡績機を放出、一部は宮城紡績会社(後の三居沢発電所)が利用したそう。
 
浜崎没落後の1881年(明治14年)に川崎正蔵(後の川崎重工業の創始者)の代理人である川崎正左衛門の所有となり、「川崎紡績所」と改称。
 
1889年(明治22年)に川崎愛之輔(正左衛門の妹婿)を中心として設立された泉州紡績会社の中核工場となる。
泉州紡績は工場所在地にちなんだ「戎印」を商標として採用してブランド化に成功、中国・香港市場に進出。
 
1903年(明治36年)に泉州紡績が岸和田紡績に買収・合併されると同社の工場として引き続き「戎印」ブランド商品を生産するが、後に施設の老朽化を理由に倉庫に転用され、1933年(昭和8年)に取り壊された。
その後1939年(昭和14年)に木南車輌製造の工場が移転してきている。
 
つまり院長のご先祖様は鹿児島島津藩大名の一人でもあったわけですが、いじち歯科を開院した土地も島津の縁があったという偶然にしては出来過ぎた経緯があります。
 
なかなかに面白いですよねぇ。
今回はこの辺りで終わりたいと思います。

2025年1月20日
戎島町

皆様こんにちは。
今日はとても良い天気で1月とは思えないほど暖かかったですね。
 
現在いじち歯科のある戎島について面白い資料を見つけたのでご紹介したいと思います。
島とついているのですがここは約360年前の1664年に海面の低下によって突如現れた島なんだそう。
丁度当時の地図を見かけました。
 
堺の歴史

 
確かにここだけ島になっていて3本橋がかかっています。
現在もある橋が360年前につくられたというのはロマンがありますね。
 
堺の歴史

 
戎島にはその後1800年代に薩摩藩の堺紡績所がつくられ明治天皇も視察に来られたということで今でも大きな記念碑が残っています。
丁度いじち歯科から東に100メートルほど歩きますと左手角に大きな石碑が残っています。
実はこの薩摩藩・・・歴史に詳しい人はピンとくると思いますが実は伊地知家とはとても深い仲だったのです。
薩摩と伊地知の関係は次回に詳しくご説明しますね^^

2025年1月10日
ごあいさつ

いじち歯科

開院当初の写真


はじめましての方が多いかと存じます。
医療法人堺豊紀会いじち歯科理事の横山紀之と申します。
私はあまり現場におらずどちらかというと裏方業務に携わっておりますので患者様とはあまり顔をあわせることがありません。
もし見かけましたら優しくお声がけいただけると嬉しく思います。
 
さて、私の主な業務の一つに患者様に簡単に受け入れられるIT活用およびコンテンツ拡充があります。
例えば病院のHPというと基本面白みが全くないといいますか・・・一度見るとその後はほとんど見ることもないのが普通だと思います。
なのでまず定期的にHPを見ていただけるようなコンテンツを作成しつつ患者様と繋がりながらいろいろと治療以外でも接点を持ち楽しんでいただきたいと考えこの部屋を開設いたしました。
せっかくお時間を使ってHPを見に来ていただいた方々に少しでも楽しんでいただけると嬉しく思います。
 
その他に手掛けているのが医院主催の各種コンサートやこども食堂支援企画。
病院経営とコンサートのどこに関係性があるの?と思われる方もいらっしゃると思いますが
子供たちにとって病院は治療だけではなく楽しいコミュニケーションの取れる場所ということを認識してもらいたいと考えています。
治療で一番大事なことは自身の状況を緊張することなくしっかりと先生に伝える必要があります。
大人でもなかなか伝えることが難しい悩みや痛みを子供たちが遠慮なく大人に伝えることは困難です。
しっかりと伝わらないとそれが後々治療に大きく問題が発生する原因にもなってしまいます。
従って常にどんなことでも気軽に話し合える環境を目指し子供たちや患者様との触れ合いをもっと充実させることが大事であると考えています。
 
また、こども食堂は堺区にある圓龍寺さんへのご支援を中心に複数おこなっており、こども達に手作りの温かく美味しいご飯をお届けするお手伝いをおこなっております。
少林寺小学校すぐ前のお寺ですのでお近くの方はぜひお立ち寄りください。
これからも様々な企画を立案しますのでどうか気軽にご家族で参加いただけると嬉しく思います。
 
さて、医療法人堺豊紀会いじち歯科は院長の伊地知豊、私の横山紀之の名前から1文字ずつとって名付けました。
実は開院当初から院長とは深い付き合いでしたので個人的にも感慨深いものがあります。
 
院長と私の出会いは今から40年以上前の小学生時代にさかのぼります。
丁度、我々が小学校4年生の夏に台風が堺を直撃し大和川が氾濫し大変な水害が発生。
そんなときに院長は堺市立東浅香山小学校に転校してきました。
まさに嵐を呼ぶ男 ( ̄▽ ̄;)
大和川氾濫

3年弱同じ小学校に通っていてその間同じクラスになることはなかったのですが共通の友人の家で偶に一緒に遊んだりしていました。
宿題なんかは院長の回答をそのまま写してましたね(笑)
当時から院長は物静かでゲーム・マンガ・野球好き。
ですが勉強熱心な少年だったと記憶しています。
その後、私は地元中学校、彼は大阪星光学院中学校に進学したためにしばらく会うこともありませんでした。
 
ふとしたことで再会したのは2014年、たまたま共通の友人が企画した小中同窓会でした。
再会時の印象は幼少期から何も変わってないなぁですかね・・・(笑)
三つ子の魂百までとはまさに^^
幼い頃の話で盛り上がりましたが昔とは違う何か不思議な魅力を感じました。
当時彼はまだ勤務医でしたが頻繁に一緒に飲むようになり近く独立したいとの相談を受けました。
幸い私は過去に福岡で美容外科クリニックの立ち上げなどを経験していたのでトントン拍子に話は進みました。
現在いじち歯科がある土地建物は堺に本社を持つ南大阪最古の倉庫会社、阪南倉庫株式会社が所有しており私は戦略経営室、情報戦略担当を兼務させていただいております。
そこで阪南倉庫株式会社堀畑益敏会長、堀畑浩重社長、堀畑和正専務のお力添えを頂戴し、いじち歯科を開院、開院後4年目で増床し8年目に医療法人となり現在に至ります。
昔の小学校での出会いがこうして今人生の大きなパートナーの一人になるということにとても不思議な縁を感じます。
 
現在に至るまで沢山の方々のお支えをいただき大変感謝しております。
友人の私がいうのもあれですが(笑) 院長はとにかくいつも謙虚で物静か・・・そして勉強家。
休みの日に食事に誘うもいつも講習会や症例検討会に参加しているため「ごめん、、今東京」とか「岐阜やねん」って断られます。
少しでも患者様により良い治療をお届けするために本当に頑張っているなぁと友人ながらにいつも感心します。
 
そして何よりも大事な事ですが人の話を途中で遮ることなく最後まできちんと相手の立場に沿ってしっかりと聞いてくれる自慢の大親友。
院長は酒もよく飲みご飯もよく食べるのですが基本シャンパン以外はあまり飲みません。
、、、、が飲むと素面よりさらに朗らかでユニークな一面が出てきます。
 
理事の部屋では理事長との小話や堺の歴史などを笑って読んでいただけるような感じで書いていけたらと思っています。
これからも医療法人堺豊紀会いじち歯科を宜しくお願い致します。